近世城下町の経営と計画に関する研究 著者 阿部和彦 [著] 出版年月日 1994 請求記号 UT51-94-F527 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000000269470 DOI 10.11501/3074803 公開範囲 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開 詳細表示 資料種別 (materialType) Book 近世城下町について, 江戸時代の近江国長浜町は、戸数約1200戸、人口約4,700人を誇り、北近江三郡の物資が集散する商工業都市として栄えた。主力の繊維業は、浜縮緬や浜蚊帳などの「浜」ブランドで知られ、近江国内においてトップクラスの経済力を有した。, 南北約1.5km、東西約0.5kmの規模を有する町割は、52の両側町を構成するタテ・ヨコの街路によって区切られている。町の中心部は、各街区とも屋敷の裏に空閑地を残した、正方形街区が成立していた。さらに各屋敷地は、整然とした短冊型地割を基本とした。この町割の成立は、天正二年(1574)から天正十年(1582)に、羽柴秀吉が行った城下町に求めることが出来る。, 天正二年(1574)から造成された城下町は、秀吉が長浜を離れる天正十年(1582)までに、三期に分けて完成されたと考えられる。まず、第一期は今浜村や近隣の横浜村などを主体として造った大手町と東本町・西本町、それに東・中・西の魚屋町や北町、そして北船町・瀬田町・横浜町・大安寺町などであった。ここでは、東西方向に伸びる魚屋町・大手町・本町といった、城に向かうタテ町が、城下町の基幹道路として最初に造成されたことが分かる。, 第二期は天正八年(1580)頃までに、小谷城下から南北の伊部町や上・中・下の呉服町、大谷市場や鍛治屋町、さらに坂田郡箕浦から箕浦町が移住し、城下町のほぼ中心部が成立したと考える。これらの町は、城に平行する町並なのでヨコ町に当たる。実は、タテ町は城への求心性があり、城主への従属性が高い町割だが、ヨコ町は城下を貫く街道を重視する形となり、経済性を重んじた町割といえる。戦国から近世へ推移するにつれ、城下町はタテ町型からヨコ町型へ変化するが、長浜が典型的なタテ町である事実は、城下町としての古さを物語っている。, 第三期は、天正九年(1581)頃に、小谷城下からの第二次移転によって、北町より北部の郡上町や知善院などが形成されたと考える。一方、南部の南新町は、その「南の新町」という町名の由来からして、中心部より一時期遅れて成立していると見られる。したがって、南新町以南の造成は、第三期に当る北町以北の造成と同時期と考えた方がよい。, 最後に寛永年間(1624~1644)に至って、町の北東部の「石田町」へ長浜城内から大通寺が移転し、その門前に西御堂前町と東御堂前町が整備され、近世・近代・現代まで続く長浜の都市景観がほぼ完成した。, 長浜が現存最古の近世城下町という視点、どのようにして秀吉は長浜の町を作って行ったのかから始まって、江戸期における町衆自治から、黒壁に代表される今日の長浜の中心市街地のまちづくりへ繋がってきたことを解説します。, 長浜が現存最古の近世城下町という視点、どのようにして秀吉は長浜の町を作って行ったのか、江戸期における町民自治が行なわれた仕組みを市民協働部学芸専門監(元長浜城歴史博物館館長) 太田浩司氏が解説をします。. 近世城下町における祭礼形態の変容-下野国那須郡烏山を事例として- 渡辺 康代 地理学評論. 城と城下町は、寛永15年(1638)の大火後に藩主となった松平信綱によって本格的な整備が行われました。西側に曲輪を拡張し、富士見櫓等3つの櫓や13の門を備え、本丸、二ノ丸、三ノ丸、八幡曲輪に田曲輪、西曲輪等を加え、約326,000平方メートル余となる近世城郭にふさわしい姿となりました。 中世都市はいかにして近世城下町へ姿をかえたか。 空間構造、ネットワーク、権力などをキーワードに都市の本質に迫る。 2012年中世都市研究会大阪大会での報告と全体討論、全国の都市・城館研究の最新動向を掲載。 これらの都市は、近世城下町の系譜を引く都市のように強固な都市構造をもってなかから、それぞれ代表的な企業城下町を形成した野田(野田鶴治株式会社)、倉敷(倉敷紡績株式会社)、日立紡績業にはじまり重工業へと展開していった。 9 近世の都市デザイン ~城下町などに見る日本固有の 都市景観~ 主題科目 都市デザイン史 1.近世城下町の一般的な特質 (1)概要 ・大名の公権力の確立 = 領国の一元的支配 ・中世都市要素の再編 城館、 … 日本100名城に認定 掛川城 JR掛川駅北口に降り立ち、北へまっすぐ。通りに面したお店の白壁やなまこ壁に城下町の風情を感じながら歩いていくと5分ほどで掛川城に到着します。掛川城は、「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに […] 城下町の構成 近世城下町は、一般には武家地、町人地、寺社地に 分類される。柳川の中心部も、図1で示すように城内 地区 = 武家地、柳河地区 = 町人地および寺社地、沖端 地区=漁師町といった明解な特性をもった3地区によっ
近世城下町の都市域構造-近世城下町の都市域構造とその変質について(1)-松 本 豊 寿 摘要 近世城下町は典形的な身分制都市であり特権都市である。前者から士庶居住区分制が問題となり, 後者からは都市域の特権的分化が検討されねばらない。 やがて近世城郭が誕生し、城が平地へと移っていくと、それとともに城下町も変化していきます。 平山城や平城の場合は山城に比べて周囲が開けていて、川の下流域、海岸線といった広大なスペースに城下町を造成できます。 これは近世城下町に典型的な町並みです。屋敷地は、なかには10間以上の間口もありますが、多くは2~5間間口で、街道筋に面した列の屋敷地はすべて奥行き14間、その背中合わせの屋敷地はすべて9間と、東西方向は同じ奥行きが基本になっています。 2. 近世城下町プランの発展類型 序説 矢 守 一 彦 近世城下町プランの発展類型 序説(矢守) W 【要約】城下町の研究は、一晃、《形態論》をこえた段階にきているように云われながら、実はその体系的な研究は十分果されて v } 近世城下町における空間構造は,大名領主の居館(城 郭)を中心に上級・中級の家臣団の屋敷が取り囲み,そ の周縁部に足軽屋敷や組屋敷を配置する形で武家地を形 成し,さらに防衛を考慮しながら町人地や寺社地の配置 が決められた。 近世城下町の研究 著者 小野均 著 出版者 至文堂 出版年月日 1941 備考 国立国会図書館内では、一部分のみ印刷できます。 請求記号 332.1-o695k-(5) 書誌id(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000000905462 doi 10.11501/1281153 公開範囲 インターネット公開(裁定) 近世城下町を有する地域の方々が『城下町』をテーマに特色あるまちづくりの取り組みについて事例発表後、パネルディスカッションを開催。 14時15分~17時30分 場所:大通寺 大谷会館 入場:無料 2018/8/7
近世城下町の鎮守社が 選定される経緯と祭礼記録の伝存のされ方は、中近世移行期から近世にかけての城下町構 造の変化の大小、および城下町祭礼への藩の関与の大小を検討する指標の一つとなると指 摘す … 2.城下町を活かしたまちづくりの変遷 (1)城下町とは そもそも城下町とは、城主の家臣が住む侍町と、商人や職人が住む町人地および社寺か らなる。城を取り囲むように位置する城下町は、戦の際には、防御線としての役割を果た (城、城下町、年表) 1.はじめに. 近代水道以前の水道の基本文献は、戦前にまとめられた『明治以前日本土木史』の第七篇です。公共給水を目的とする施設を(1)灌漑兼用、(2)官公用専用、(3)一般飲用の施設に三分類して、江戸、地方の順にそれら施設の概要を示しています。その記述が水道協会の『日本水道史』等に引用されています。 私は1979年(昭和54年)ころ、兵庫県赤穂市に存続していた旧赤穂水道(1616年創設)の調査に参加しました。江戸時代に水道があることなどまったく知らず、現地にパッと行き、暗渠となって … 近世初頭において、わが国では全国各地に城と城下町が盛んに建設されていった。特に、その頃建設 された城下町の多くは現在も主要な都市として生き続けているため、その成立の経緯・時期は城郭史、 近世竹田における城下町設計の論理 金井 雄太1・福井 恒明2 1非会員 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻(〒113-8656 東京都文京区本郷7-3-1, E-mail:kanai@keikan.t.u-tokyo.ac.jp) 2正会員 博士(工) 東京大学大学院工学系研究科(〒113-8656 東京都文京区本郷7-3-1, E … 福井・勝山石がたり日本遺産公式サイトです。福井・勝山日本遺産活用推進協議会運営。中世・近世のまちづくり、石から読み解く石のストーリー。福井県勝山市の白山平泉寺、福井市の一乗谷朝倉氏遺跡をはじめ、27件の構成文化財が日本遺産に認定されています。 近世城下町の財政システムと町人 松崎範子 はじめに 近世期には土地にかかる年貢負担があるのに対して、大半の城下Ⅱ『では土地に対する負担=地子が 免除されている。領主への負担のない城下町は、どのように町行政の費用を捻出しながら運営されて 秀吉の町・長浜-町衆自治の伝統 . 金沢は、近世日本を代表する城下町で、卯辰山、小立野台、寺町台の三丘陵とその間を流れる犀川、浅野川の両河川により形成された自然地形を活かして、金沢城・兼六園とそれを取り巻く堀、広見を配した街路、多くの坂道や用水などの歴史的な都市構造を今に伝えています。 矢守一彦は江戸時代に日本各地に分布した城下町の都市形態(矢守の用語で言えば「都市プラン」)に着目し、その特色を織豊期から江戸時代にかけて建設された城下町の形態を、A・戦国期型からF・崩壊型までの7類型に分類した。 ¨éå¶ä½ç©ã«ãå®å
¨è©³è§£ å±±åã¬ã¤ããï¼å¦ç ãã©ã¹ï¼ããã¨ãªã¢å¥ã ããæµããã¤ãªããä¸çå²ãï¼ææ¥æ°èåºçï¼ããæé¤ã¨ãã¦ç¥ã£ã¦ããããå°æ¿å¦ãï¼ããã¡ç¤¾ï¼ããã¼ããããããã¤ã³ãç¥è©±ãï¼ã¤ã¼ã¹ãã»ãã¬ã¹ï¼ãªã©ãããã, ãè¶
å
¥éï¼ ãåã»ããã¼ãã®ä»ã®è¨äºã¯ãã¡ã, 第44åãæ´å²ãåä¸çºã£ã¦ã©ããªè¡ã ã£ãã®ï¼. 類型化された城下町のかたちが意味するもの. Ser. 2018/5/2
長浜が現存最古の近世城下町という視点、どのようにして秀吉は長浜の町を作って行ったのか、江戸期における町民自治が行なわれた仕組みを市民協働部学芸専門監(元長浜城歴史博物館館長) 太田浩司氏が解説をします。 いわゆる「城下町」の研究は,1928年に刊行された小野均氏の「近世城下町の研究」によっ て大きな礎石をすえられ,その後,遠藤元男氏のr日本中世都論」 (1940年),原田伴彦氏の A 72(7), 423-443, 1999-07-01 い。また、近世城下町に関する既存の研究は多く見られ るが、ほとんどが街路構成や空間構成といった都市骨格 の形成について述べられたものである。中には近世城下 町を対象とし、都市構造というデヴチ面から人口変動に 恒常的な店が並ぶ町へと変化。 2.近世城下町の誕生 信長の城下町 小牧城下町 永禄6年(1563)に清須から居城を移し、永禄10年(1567)に岐阜に移る までの間存続。 城郭の南に、竪町型の城下町を建設。城郭に接するように居館や家臣団屋敷を配置。 Amazonで高見 敞志の近世城下町の設計技法―視軸と神秘的な三角形の秘密。アマゾンならポイント還元本が多数。高見 敞志作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また近世城下町の設計技法―視軸と神秘的な三角形の秘密もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 Amazonで渡辺 康代の近世城下町の付祭りの変化―伊賀国上野と下野国烏山を事例に―。アマゾンならポイント還元本が多数。渡辺 康代作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また近世城下町の付祭りの変化―伊賀国上野と下野国烏山を事例に―もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 長浜が現存最古の近世城下町という視点、どのようにして秀吉は長浜の町を作って行ったのかから始まって、江戸期における町衆自治から、黒壁に代表される今日の長浜の中心市街地のまちづくりへ繋がってきたことを解説します。 近世城下町の伝馬役 : 役負担の空間構成 / 土田良一 [執筆] 近世中後期の城下町構造の変容と町人層の動向 : 信州上田城下町の場合 / 深井甚三 [執筆] 近世城下町の構造 / 小和田哲男 [執筆] 十七世紀の城下町仙台における侍の居住パターン / 後藤雄二 [執筆] 広島は 近世 きんせい 城下町として発展した典型的な都市です。城下町広島は、広島城を築城した毛利 輝元 てるもと 及びその後入部した福島正則によって、造られました。