アテネの繁栄と衰退の原因で押さえておきたいポイント ※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。 ペルシア戦争 ・紀元前500年から紀元前449年にかけて、アケメネス朝ペルシアとポリス諸都市からなるギリシア連合 【文化】『歴史』: ヘロドトスがペルシア戦争を題材に著した ※トゥキディデス 著『歴史』: ペロポネソス戦争が題材 ギリシア世界②【ペルシア戦争(前500〜前449)】 【アテネの民主政完成(前5世 … 歴史学の後半で、戦争はペロポネソスと呼ばれるようになります。 ギリシャのアテネは、サモス、キオス、レスボスをも含むデリアン連合の長に立っていました。 スパルタは長年にわたりこれらの都市に挑戦しようとしました。 ペロポネソス戦争の歴史を書いたツキディデスもそうだった。 しかし実際はいわば「冷たい戦争」がつづいていたのだった。 休戦はアテネとスパルタのあいだだけのことで、お互いの同盟市は休戦していないといいはり、敵対をつづけた。 ペロポネソス戦争 (前431~404)です。 はじめはペリクレスのアテネが優勢でしたが、 疫病によりペリクレスを含むアテネ人口の3分の1が死亡すると、 戦争は泥沼化します。 さらに、好戦的な民衆を扇動する デマゴーゴス ( 扇動政治家 デマゴーゴス )が、 ペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年) アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。 【ホンシェルジュ】 ギリシアの二大ポリスであるアテネとスパルタが争った「ペロポネソス戦争」。当時の歴史家トゥキディデスの『戦史』によって、現代までえ伝えられています。この記事では、原因、経緯、結果、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。 古来、感染症のパンデミックは多くの生命を奪ってきただけでなく、人間のもろい理性を簡単に突き崩してきた。 2010年に公開された英独合作映画 “Black Death” は文字通り黒死病、つまりペストを題材にしている(日本では劇場未公開だったが一部の動画配信サービスで視聴できる)。 1348~1350年のペスト大流行は、当時のヨーロッパ人口の三分の二にあたる2000万人以上を死に至らしめたといわれ、世界史で最も有名なパン … ギリシアの歴史家で「歴史」を記した。 「歴史の父」と呼ばれ、ギリシア・オリエントの歴史を知る上で非常に重要な人物。 トゥキュディデス. ペロポネソス戦争は、デロス・シンマキアとして知られるアテネ帝国と、スパルタが率いるペロポネソス同盟との間の壊滅的な影響を伴う、軍事的対立です。 彼女について同時代の歴史的な多くの証言を保存したが、それらの間で最も重要な仕事は Thucydides(紀元前460年 - 紀元前396年?)は、歴史的歴史の父であると考えられていたアテネの歴史家でした。この面は別として、彼はまた戦争中に彼の都市国家をスパルタに陥れた軍人でした。 ペロポネソス戦争 ― アテネ(デロス同盟)とスパルタ(ペロポネソス同盟)がギリシャ世界を二分して覇権を争った戦争。スパルタの勝利に終わったが、ギリシャ全体の衰退への転機となった: w ぽ: ポエニ戦争 … そして、アテネはこののち、落日へと向かっていったのだった。 古代ギリシャの歴史家ツキディデスがペロポネソス戦争についてまとめた『戦史』や、古代ギリシャの三大悲劇詩人の1人、ソポクレスの戯曲『オイディプス王』にも疫病が描かれている。 より具体的にペロポネソス戦争に関するアリソンの記述を見てみよう。はたしてスパルタとアテネの対立はどのようなものであったか。第一に、曰く、 歴史上の多くの新興国と同じように、アテネは自分たちの台頭を無害なものと考えていた。(6頁) 前5世紀のギリシア・アテネの歴史家。ペルシア戦争を描いた『歴史』を著す。この書はギリシアのみならず、オリエント世界についての正確な情報も提供する、優れた歴史書であり、かつ、人類最初の本格的な歴史叙述とされ、ローマの弁論家キケロは彼を「歴史の父」と賞賛した。 東京大学名誉教授 本村凌二/ペロポネソス戦争はアテネとスパルタという二大ポリスの対立に始まる。20年以上にもわたるこのギリシア「世界戦争」は、ポリス社会にさまざまな衰退をもたらした。スパルタの凋落、傭兵の出現とともに、ポリスの意味は変質していく。 bc404 アテネの主戦論者クレオフォン処刑され、アテネ降伏:ペロポネソス戦争終了。 /スパルタ、アテネの城壁を破壊/アテネに30人僭主の寡頭派政権による暴政(~BC403)/アルキビアデス、フリュギアで暗殺される/アテネの民主派、ピレウスに亡命 ギリシアの二大ポリスであるアテネとスパルタが争った「ペロポネソス戦争」。当時の歴史家トゥキディデスの『戦史』によって、現代までえ伝えられています。この記事では、原因、経緯、結果、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。, 紀元前500年から紀元前449年まで続いた「ペルシア戦争」が終結した後、紀元前431年から紀元前404年にかけて「ペロポネソス戦争」が勃発しました。アテネを盟主とする「デロス同盟」と、スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」という、ペルシア戦争では味方だった勢力同士の争いです。, 27年間も続いたギリシアの覇権を巡る戦いは、エーゲ海だけでなくシチリア島にまでおよび、古代における世界戦争の様相を呈します。, アテネは民主政を軸とするポリスで、「ペルシア戦争」時の「サラミスの海戦」で勝利に貢献した強力な海軍を有しています。「ペロポネソス戦争」開戦時の紀元前431年当時は、将軍職のペリクレスのもとで全盛期を迎え、エーゲ海に覇権を確立。積極的な拡張政策を実施して、軍事力を増強しながら勢力を拡大していました。, 「デロス同盟」は、そんなアテネを盟主にして紀元前478年に結成された同盟です。最盛期には約200のポリスが参加し、各ポリスが兵や船、資金などを拠出して連合艦隊を編成していました。, 一方のスパルタは、少数の貴族階級が多くの半自由民や奴隷を支配する軍国主義のポリスです。主力は陸軍で、「スパルタ教育」という言葉が現代でも用いられるように、厳しい訓練をすることで有名でした。, スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」は、「デロス同盟」よりも古く紀元前6世紀末に結成されたもの。クレオメネス1世を中心に、ペロポネソス半島の諸ポリスで構成されています。「ペルシア戦争」で勝利をして以降勢力を拡大する「デロス同盟」に対して、強い危機感を抱いていました。, 「ペロポネソス戦争」が開戦した直接の原因は、エピダムノスという植民地で起こった内紛と、周辺民族との抗争です。, エピダムノスは、コリントス人が建設した植民地ケルキュラを母体とする市。相次ぐ争いによって疲弊したためケルキュラに仲裁と援助を求めましたが、拒否されてしまいます。次にコリントスに救援を求めますが、当時はコリントスとケルキュラの関係が悪化していたため、怒ったケルキュラがエピダムノスへ侵攻してきました。, これに報復をするためコリントスが軍備の増強を始めると、ケルキュラはアテネに支援を求めます。コリントスは対抗してスパルタに支援を要請しました。, その結果、ひとつのポリスに過ぎないエピダムノス周辺の争いが、ギリシアの二大陣営による全面戦争へと発展してしまったのです。, 「ペロポネソス戦争」は大きく、「十年戦争」「ニキアスの和約」「第二次戦争」の3つに分けることができます。, まず「十年戦争」は、紀元前431年5月、スパルタ王アルキダモス2世が率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠地であるアッティカ地方に侵攻したことで始まりました。, これに対し、ペリクレス率いるアテネは、籠城してペロポネソス同盟軍をアッティカ地方に引きつけ、海軍を用いて本国を攻撃する作戦をとります。この作戦が功を奏して、戦いはアテネ優勢で進みました。, しかしアテネ市内で疫病が流行り、紀元前429年にペリクレスが死亡すると、戦況は徐々にペロポネソス同盟側に傾き、膠着状態に。長期化する戦いのなかで、両国はともに疲弊していきました。, 紀元前422年の「アンフィポリスの戦い」で、アテネの指導者クレオン、スパルタの将軍ブラシダスの双方が亡くなると、和平を求める機運が高まります。, そして紀元前421年アテネの将軍ニキアスと、スパルタ王プレイストアナクスの交渉が成立し、「ニキアスの和約」が締結されることになりました。, しかしこの和約で定められた「両陣営が占領地を返還する」という条項が守られることはなく、紀元前415年、アテネのアルキビアデス主導のもとで、軍事作戦「シチリア遠征」が開始。戦いが再開しました。これを「第二次戦争」と呼びます。, 「シチリア遠征」は、シチリア島においてスパルタの同盟国であったシュラクサイが勢力を拡大し、その影響下にあるセリヌスによってアテネの同盟国セゲスタが攻撃を受け、救援を要請されたために実施したもの。, ただ遠方であるシチリアへの遠征は無謀で、ペロポネソス同盟軍にアテネへの穀物供給地であるデケレイアを占領されたこともあり、2度にわたる遠征は失敗に終わりました。アテネは大軍を失うことになってしまったのです。, これによって「ペロポネソス戦争」の戦況はほぼ決し、デロス同盟から離反するポリスも続出。その後もアテネは戦い続けますが、405年の「アイゴスポタモイの海戦」で命綱だった海軍が壊滅し、制海権を失います。, 紀元前404年についにアテネ市が包囲され、降伏。「ペロポネソス戦争」は終結しました。, アテネを盟主としたデロス同盟は、「ペロポネソス戦争」での敗北により解散。民主政が崩壊し、スパルタ人の指導のもとで「三十人政権」と呼ばれる親スパルタの寡頭制政権が成立します。「三十人政権」は恐怖政治を敷き、アテネの貴族や富裕層などを次々と粛清。その富を奪いました。, するとアテネ市民の間で反発が起こり、紀元前403年にはアテネ海軍の将軍だったトラシュブロスを中心とする勢力と内戦が勃発。「三十人政権」はわずか1年ほどで崩壊し、アテネは再び民主政の国になりました。, 「ペロポネソス戦争」によってデロス同盟の盟主としての地位は失ったものの、いまだに有力なポリスであったアテネに目を付けたのが、アケメネス朝ペルシアです。もともとアテネとペルシアは宿敵同士ではありましたが、ペルシアは「ペロポネソス戦争」に勝利して勢力を拡大するスパルタに対抗するため、アテネに資金援助をおこないます。, 一方のスパルタは、ギリシアの覇権を掌握し、莫大な富を得ることになりました。しかしその結果、市民間の貧富の差が広がり、スパルタ軍は弱体化してしまいます。, スパルタが勢力を落とすなかで台頭してきたのが、テーバイです。テーバイは「ペロポネソス戦争」時にはスパルタと同盟を結んでいて、戦後に同盟を破棄。アテネと同じようにペルシアからの資金援助を受けつつ、コリントスとともに反スパルタ連合の中核を形成します。, こうして「ペロポネソス戦争」以降のギリシアでは、アテネとスパルタに加え、ペルシア、テーバイ、コリントス、ペルシアなどの勢力が時々の状況に応じて組む相手を変えながら、争いを続けることになるのです。, 覇権を握る勢力は頻繁に入れ替わりましたが、長引く抗争の結果、そのすべてが衰退するという結果を招きました。最終的にギリシアの覇権を握ったのは、新たに台頭してきたマケドニア王国です。, マケドニア王国のフィリッポス2世とアレクサンドロス3世親子が活躍。各勢力を打倒して人類史上初の巨大帝国を築きあげます。アレクサンドロス3世は後に、「征服王イスカンダル」「アレクサンダー大王」と呼ばれるようになりました。, 「ペロポネソス戦争」の記録は、アテネの歴史家トゥキディデスの著書である『戦史』によって後世に伝えられました。, トゥキディデス自身も将軍として参戦していましたが、紀元前422年の「アンフィポリスの戦い」で失脚。20年の追放刑に処されています。その間にスパルタの支配地に逗留していたこともあり、双方の陣営を見聞きした経験が『戦史』の客観的な叙述を可能にしたといわれています。, 『戦史』の序文によると、トゥキディデスは「ペロポネソス戦争」がギリシア世界全体を揺るがす大規模な戦いに発展すると見抜き、後世への教訓として残しておくべきだと考えたため、執筆にいたったそうです。, しかし、『戦史』の内容は紀元前411年までで、紀元前404年の終戦までは記していません。トゥキディデス自身は紀元前395年に亡くなっているため、死が中断の理由というわけでもなく、多くの研究者がこの謎に挑んでいますがいまだに解明されていないのです。, 「ペロポネソス戦争」の記述自体は、哲学者ソクラテスの弟子クセノポンに引き継がれ、『ギリシア史』としてまとめられています。, 本書は、先述したトゥキディデスの『戦史』を抄訳したもの。要旨がまとめられているので、全体像を把握するのに最適の一冊だといえるでしょう。2400年前に書かれた書物とはいえ、政治家の演説や停戦後の交渉過程などは、今読んでも色褪せない魅力に満ちています。, 「ペロポネソス戦争」は、強大な軍事力を有するスパルタと、新興大国アテネの衝突。覇権国家が現状維持を望み、新興国家が現状打破を望む以上、両者の衝突は避けがたいというトゥキディデスの考え方は、「トゥキディデスの罠」と呼ばれています。, 彼が後世に教訓として書き残した『戦史』から、私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。, ヨーロッパ文明の源流といわれる古代ギリシアについて、青銅器時代から紀元前8世紀頃のポリスの成立、紀元前5世紀のポリス全盛期、そして「ペロポネソス戦争」とその後の混乱を経て、マケドニア王国によってポリスという体制そのものが滅びるまでを記した通史です。, 前半では、ギリシアの政治体制として真っ先に思い浮かぶであろう民主政がいかに形成されていったのか、その過程を確認でき、後半ではアテネとスパルタという対照的な2つのポリスについて解説しています。, またギリシアは、アルファベットやオリンピック、ゼウスやヴィーナスなどのギリシア神話、ソクラテスやプラトンなどの哲学者と、現代にも通じるものを多々排出しているため、馴染みのある言葉がたくさん出てくるのも嬉しいポイント。歴史書としても読み物としても楽しめる一冊です。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。. 【The Thucydides Trap】 トゥキディデスは古代アテナイの歴史家。古代ギリシャ時代の約2500年前、台頭するアテネと覇権を握るスパルタの間で長年にわたって戦われたペロポネソス戦争を記録し、「アテネの台頭と、それによってスパルタが抱いた不安が、戦争を不可避にした」と記した。 『戦史』(せんし、希: Ιστορία του Πελοποννησιακού Πολέμου、英: History of the Peloponnesian War、日: ペロポネソス戦争史)は、古代ギリシアのアテナイ出身の歴史家トゥキディデスが著した歴史書である。 とになろうか。これはまたペロポネソス戦争について第一級の史料を残した偉 大な歴史家ツキディデスの評価でもある。紀元前5 世紀も4 分の3 を過ぎた頃 にはこうした評価は,当時の著作家たち,と言っても言うまでもなくその著作 ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう、古希: Πελοποννησιακός Πόλεμος、英: Peloponnesian War、紀元前431年 - 紀元前404年[1])は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。, 紀元前435年、コリントス人により建設されたギリシア北西部の植民市ケルキュラ(当時は既にコリントスと離反)を母市とする植民市エピダムノスは打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊し、内部の仲裁と兵隊の援助を母市ケルキュラに求めたがケルキュラ人は何の援助も与えなかった。困窮したエピダムノスはコリントスに救援を要請し、これに応じたコリントスが守備兵と施政官を派遣し植民者の公募を始めると、激昂したケルキュラ人はエピダムノスへ侵攻、エピダムノスを攻囲ののち陥落させ、各地のコリントス植民市に対して略奪を繰り返した。, 報復の機会を窺うコリントスの軍備増強を恐れたケルキュラはアテナイに援助を求め、紀元前432年これを遠からず起こるだろう対ペロポネソス同盟戦の戦力増強の好機と見たアテナイが応じて援軍を送り戦闘となった(シュボタの海戦)。翌年、ギリシア北部にあるコリントス人の植民市ポテイダイアがアテナイの武装解除要求を拒否してデロス同盟からの脱退とペロポネソス同盟による保護と加盟を求めた事に関して、アテナイが軍を派遣して包囲、一部のコリントス人が個人的に救援した(ポティダイアの戦い)。これらの事件により、アテナイはコリントスと対立する事になる。, この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。, これらを背景として、勃興する覇権主義勢力と旧来の自治独立のイデオロギー対立がポリス間の権益や帰結闘争と結びついた結果、「デロス同盟対ペロポネソス同盟」という代理戦争的構図が作られ、紀元前432年にペロポネソス同盟会議は、アテナイ軍のペロポネソス同盟市に対する略奪や侵略を和約の破棄と見なし、アテナイとの開戦を決議した。, 翌紀元前431年5月、スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍によるアッティカ侵攻が開始された。対するアテナイはペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイとペイラエウス港及び両者を繋ぐ二重城壁の内側へ退避させる篭城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取った。ところが、エジプト・リビア・ペルシャ領・エーゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも発生、市内の治安が乱れ盗賊が横行した、紀元前429年までに市民の約6分の1が病死した。, しかし、海上におけるアテナイ軍の優位は変わらず、紀元前425年のスファクテリアの戦い(英語版)において従来決して降伏しないとされていたスパルタ市民兵120人を含む292人を捕虜とする勝利を収めるなど多くの戦果を得ていた。ペロポネソス同盟軍側は停戦を申し入れたが、ペリクレス死後、好戦的な民衆を抑制出来る指導者を欠いたアテナイはこの申し出を拒否、戦争続行の構えをとった。しかし、戦局は次第にペロポネソス同盟側へ傾き始め、ペロポネソス同盟軍がボイオティアやトラキアにおいて勝利を収める。ところが、紀元前422年にスファクテリアの勝者で、アテナイの好戦的指導者クレオン、同じく主戦派のスパルタの将軍ブラシダスがトラキアのアンフィポリスの戦いで共に戦死した。, 和平を望むアテナイの将軍ニキアス、同じく和平を望むスパルタ王プレイストアナクス主導の下で翌紀元前421年にアテナイ、ペロポネソス同盟間で和平が成立した(ニキアスの和約)。しかし、両国共に決定された領土の返還事項を守らず、ニキアスの和平が戦争を完全に終わらせるには至らなかった。, 紀元前415年にアテナイは主戦論を唱えるアルキビアデスの主導でシケリア遠征を決定し、これによって戦争が再開されることとなった。しかし、シケリア遠征は彼我の距離を無視した無謀とも言える遠征であった。同年にシケリアの戦局がアテナイ側不利に傾き始めたのを機にペロポネソス同盟はアテナイへの穀物の供給地として重要なデケレイア(英語版)を占領した。大兵力を投入したアテナイ軍の二次に及ぶシケリア遠征軍が壊滅、失敗に終わったことにより、デロス同盟の被支配市から離反が相次ぎ、情勢はペロポネソス同盟優位に傾いていった。, アテナイは予想外の耐久力を発揮し、依然エーゲ海でペロポネソス同盟と渡り合った。アテナイはいくつかの海戦で勝利を収めるものの、大勢は決しており逆転するには至らなかった。紀元前405年、ケルソネソス半島(英語版)(今日のトルコ領ゲリボル半島)を流れるアイゴスポタモイ川(英語版)の河口付近でアイゴスポタモイの海戦が勃発した。この海戦では、食料調達のために上陸し、休息を取っていたアテナイ軍をリュサンドロス率いるペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を収めた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、同時にアテナイ市への食料供給路を断った。翌紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って戦争は終結した。, 戦争の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛正を行なった。だが、9ヶ月でトラシュブロス率いる共和制派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスがアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判[2]にかけられて刑死した[3]。紀元前401年の同時期、アケメネス朝ペルシアではアルタクセルクセス2世と小キュロスの間で後継者争いのクナクサの戦いが起こった。この戦いに参加したクセノポンは『アナバシス』を記した。, アテナイはデロス同盟の支配者たる地位は失ったものの、有力ポリスとして存在し続けた。ペルシア帝国のギリシャ地方支配に対抗したスパルタに対して、ペルシャ帝国は敵対するアテナイやテーバイ、後にはコリントスなどのスパルタと敵対するポリスに資金支援を行い、諸ポリスが合従連衡を繰り返してスパルタに対抗した(例えばコリントス戦争、大王の和約)。紀元前379年にようやくスパルタがギリシャとエーゲ海における覇権を握ったが、海上交易のもたらす富が市民の間に貧富の差を生み、主に自作農から構成された兵役を担う自由市民が700名程度にまで減少したため、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度(英語版)(古代ギリシア語: Λυκούργος, 英語: Lycurgus)は打撃を受けた。, 紀元前378年、アテナイがデロス同盟に代わる第二回海上同盟(英語版)を再び結成した。ギリシア世界がボイオティア戦争(英語版)で慢性的な戦争状態に陥り、徐々に衰退する一方で、アテナイは紀元前375年のナクソス沖の海戦(英語版)でペルシア軍を打ち破り、海上の覇権を取り戻した。 アテネがデロス同盟で支配権を拡大すると、 従来からあったペロポネソス同盟のコリントスやスパルタにとって脅威となった。 コリントスとアテネ間の紛争をきっかけにペロポネソス戦争が始まる。 ペロポネソス戦争 ギリシアの歴史家で「戦史」を記した。 「戦史」でペロポネソス戦争が描かれている。 デジタル大辞泉 - ツキディデスの用語解説 - [前460ころ~前400ころ]古代ギリシャの歴史家。アテネ出身。ペロポネソス戦争を記した「歴史」8巻(未完)は歴史記述の傑作とされる。トゥキディデス。ツキジ … ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう、古希: Πελοποννησιακός Πόλεμος、英: Peloponnesian War、紀元前431年 - 紀元前404年 )は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。 紀元前371年、スパルタ軍はレウクトラの戦いでエパメイノンダスに率いられたテーバイ軍に敗北し、ギリシアの覇権を失った。一時的に覇権を握ったテーバイも、紀元前362年にマンティネイアの戦いでエパメイノンダスが戦死すると覇権を失った。, 紀元前357年にテーバイを中心とする同盟市と第二回海上同盟を擁するアテナイの間で同盟市戦争(英語版)が勃発し、紀元前356年にはテーバイを中心とするアンフィクテュオニア評議会(隣保同盟)とフォキスを中心とするアテナイ・スパルタ連合軍の間で第三次神聖戦争(英語版)が起こった。紀元前355年に同盟市戦争は同盟市の勝利におわり、第二回海上同盟は崩壊。紀元前346年に第三次神聖戦争も隣保同盟が勝利し、隣保同盟側に参戦したマケドニア王国のフィリッポス2世は影響力を強めた。紀元前347年にプラトンが死去し、アリストテレスが故郷のマケドニアに帰国してアレクサンドロス3世の家庭教師になったこともこの後の歴史に大きな影響を与えた。紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王国にアテナイ・テーバイ連合軍は敗北し、マケドニアの覇権が成立した。こうしてギリシア世界はマケドニアの支配下に置かれることになったのである(スパルタだけはマケドニア主導のヘラス同盟(コリント同盟)に加わらず、後にアギス3世が反マケドニアの兵を起こすも、紀元前331年のメガロポリスの戦いで敗れた)。紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されると一時的にヘラス同盟は混乱に陥ったが、アレクサンドロスが権力を掌握。紀元前334年にアレクサンドロスは、ペルシア戦争以来のギリシア世界の宿敵ペルシアを倒すためにマケドニア軍を率いて東征に乗り出した(アレキサンダーの東征(英語版))。, トゥキュディデスはこの戦争が歴史的な戦争になることを予感してその顛末を書き綴り、それは後に『戦史』として結実する。しかし、理由は不明だがトゥキュディデスの筆は紀元前411年の記述で止まった(それ以降も彼は生き続けたので、この断筆を彼の死と直接結びつけるのは早計である)ため、後にクセノポンが中断部分から筆を起こして紀元前362年までを記録した『ギリシア史』(『ヘレニカ』とも)を著し、戦争の記録を完成させた。, トゥキュディデスはアンフィポリスをめぐる戦いに指揮官として参加したが敗れ、責任を問われて20年の追放刑に処せられた。このためスパルタの支配地にも逗留したことがあり、双方を客観的に観察することができた。, なお、哲学者のソクラテスも一兵卒としてこの戦争に参加し、デリオンの戦いでは味方が総崩れになる中最後まで奮戦した。彼の奮戦の様子を弟子のプラトンは著作において述べている。だが、戦争への参加にもかかわらず、アルキビアデスやクリティアスを始めとする彼の弟子や関係者が戦争とその後の混乱の原因となったことで民衆の反発を招き、後の刑死の一因となった。, 紀元前362年のマンティネイアの戦い以降の歴史は、ディオドロスの『歴史叢書(英語版)』や、アッリアノスの『アレクサンドロス東征記』(古希: Ἀλεξάνδρου ἀνάβασις)等の記録から知ることが出来る。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ペロポネソス戦争&oldid=81462782, この項目では、紀元前431年から紀元前404年にかけての戦争について説明しています。紀元前460年から紀元前445年にかけての戦争については「. アテネの隆盛 ペルシア戦争後、アテネはギリシアでも最も優れた民主制度を作り上げ、デロス同盟の盟主として、ギリシア内での支配力を強めていきました。 一方、ギリシアには、スパルタを中心とし、コリントスや他のポリスが加盟するペロポネソス同盟というものが

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